夜。
 陽が沈んで、暗い、冷える、静かになる夜には、
意識のおよばない頭の何処か、あるいは身体の何処かで、空虚が生まれている。
 ………イライラする。
 一人の部屋を抜け出して、地階の食堂兼酒場を通り抜け、夜の街へとすべり出る。
 黄色い月の映える夜には、何だか腹のあたりがざわつく。
 こういう時に欲しいのは……熱い血。わかってる。小物でいい。何か殺せばスッキリする。
 人間相手でもいいが、弱いし、騒ぐし、結局逃げる。満足いく相手に出会ったことはない――…
「……何だ?」
 ひらり、と。
 薄く白い何かが視界の端に入った気がした。
 似た物を見た。あれは人だった。
 ――剣を向けてもそういえばあれは逃げもしなかった。
「誰だっ!」
 風に流れたあれは、被かれたヴェールだ。それ以外は闇に溶けて気付きにくい濃色の布。
 ―――見覚えが、ある。
「貴様は……」
 弱かったが、ひどくムカつく、何もかも見透かした目をしていた。
 夜道に呆っと佇んでいたのは、赤竜の町で、旅の僧と名乗った、そして斬り捨てられた筈の女だった。
「……ッ待て!!」

 アニビパオの旅の僧。忘れえない不愉快。
「待てっ、貴様は…」
 “旅の僧”は街灯のちょうど下、ゆっくりと体ごと振り向く。
「ヤハリ、覚えてますね。あなたは私を忘却していない」
「何を言っ…」
 突然周囲から明かりが消えた――気がした。街灯だけでなく月明かりも何もかも。
 それは強いめまいに似ていて、対象物だけがハッキリと見えた。
「あなたのことが気になっていました……それに、私を覚えているということ…でも…」
 今宵の月のような女は、かつかつとジェンドの目の前に歩んでくると、その頬に手をそえた。
「あの人の興味をそれほどに…ひいてはいけない…」
「何を…言って…いる」
 力がはいらない。
「思い出せないようにしなければいけない。……思い出そうともしないように」
「お前、何を……んっ!?」
 目の前に立った彼女は、ジェンドのそれと唇を重ねた。
 力も温かさも、何も伝えないくちづけだった。
 ただ乾いていてつややかな唇だと、皮膚感覚だけが伝えた。
「………っ!!」
 だんっ
 力任せに引き離すと、女の体はまるで人形のように他愛なく飛んで転げた。
 生きていないようなその動きに、喉の下がゾクッと冷えた。

 地面に叩きつけられた衝撃も、無かったようにぼんやりと顔を上げ、埃も払わず立ち上がる。
「……怯えることはありません」
「だっ、誰が怯えてなど……!!」
 ジェンドは剣の柄に手をかけた。抜き放って構えかけて……ふいに寒気がした。

 ――斬ってしまえば――この女は死ぬ。

 そんな他愛ない逡巡が、防衛を無効と化した。。
 構えた刀は――殺意を伴わなければ何の意味も成さなかった。女は恐怖も見せず頭上の枝を払うかのようにそれをくぐって……
「…ぐっ…!!」
 喉に当てられたひやりとした手から、痺れだか、脱力感だかよくわからない感覚が広がった……

 ガランッ

 細身の剣は地面に転がって、ジェンドはその場に崩れ落ちた。

「や、め…ろ……さわるな」
 頭がフラフラする。
 何をされるのか……。頭のどこかでわかっているのに、なのに想像もつかない。
 鎧を外されるのをふらつく頭で抵抗した。でもそれはガランと外れて、それでひどく無防備になった気がした。
 次には服を剥がれるのだろうと予想したが、女はしかしスッと身を起こした。
 気を呑まれて見上げると、彼女はするりと自らの服を落とす。
 最後の被きのヴェールが落ちて、女の裸身の向こうに月が見えた。
「な……」
 晒された身体をすべて、見てジェンドは思わず赤面した。
「ナに…考えてるッ…貴様」
 似ている肌色。でも痩せ形のジェンドとは違う、“女”の身体。なめらかな曲線の肩と、張り出した腰、やわらかく弾む胸――
「やっ…やめろ!!」
 女の手が紐をほどいて上着をたくし上げる。痩せた体の中でそれでも豊かな胸があらわになった。
 素肌が外気に触れて寒い。
「……ッ…。はなせ」
 自分と色のよく似たしなやかな手が、胸のふくらみに触れてやさしく撫でた。
「アッ……」
 まだやわらかい乳首のあたりを、掌の中央で転がすようにして、あくまで弱く。
「ふッ……、やめ…ッ…」
 自分であげた声が耳に届いて、愕然とした。
 くそ…くそッ、こんな…。
「――…離せっ!! ……」

 こんな、並の女みたいな声が自分から出るなんて想像したこともなかった。
「やめろッ…てめっ…」
「――キレイな身体ね」
「…ッ……!!」
 侮辱されている。
 口調は穏やかだったが、そう感じた。
「こんな風にされたことなどないのでしょう?」
 つん、と天を向いた胸の先端を、つややかにみがかれた爪の先が摘んだ。
「……ンッ…!」
 自分では止め様もない声が喉から漏れた。甘い痛みはその鋭さが刺傷に似ていた。
「良い体だわ、本当に」
 刺激に研ぎ澄まされた感覚器官をねろりとした温さが包んだ。
 濡れた感触と肌を這う動きから、舌でふれられているとわかった。
「いっ……やメロ…」
 唾液が濡らした肌の上をなぞる舌頭はそれ自体生き物のように感じた。気持ち悪さの中で、時折ぴっと身体が反る。
 ――痛みなら、我慢できるのに。

「離っ……いやっ…だ……この…っ」
 ――殺してやる。
 呪詛がうかぶ。
 こんな屈辱に耐えられるほどの精神も、身体も、持っていない。
「殺す…! ぶっ殺……!!」
 ころがった剣に手を伸ばす。抜き身が指先に触れたので、それをそのまま握り込んだ。
 皮膚の切れた感覚がする。痛みがぼやけた精神を、一時澄ました。
 女の顔を見る。この顔を、見たことが、あっただろう、か……?

『右手…』
『二頭の赤き竜を…』
『…哀れに思うだけ』


「貴様は誰だ…?」

 わからない。
「――忘れてしまいなさい」
「…なに…」
「忘れるの…こんなのは嘘だわ…」
 悪魔のように甘いささやきだった。
 忘れる――
 それはひどくた易く、やさしそうだった。
 そのためにどうすれば良いのか、わかる気もした。
「私の顔を見て」
 ボンヤリとした瞳の色、シナモン色の肌、夜にうかぶ金髪。
 ――なにかに似ている、とジェンドは考えた。
「おまえは…」
「――眠りなさい」
 そう、霧の夜の月に似ている、と。

 どんな夢を見ても、目覚めは訪れる。
 朝が夜の続きではなく、新しい始まりであるかのように。





 ジェンドは起き上がって、眉をしかめた。
 なにか――頭に霧がかったようにボンヤリする。
 こんな朝は、めずらしい。

「ジェンドーおっはよー♪」
 連れのこどもが元気良く手を振ってきた。
「おはよ。なんか今日顔色悪くないか…?」
 連れの男が気遣うようにのぞき込んだ。
「夢を…見た」
「へー。どんな」
 問う男の金の髪をなんとなく見上げた。
 シナモンの匂いのする茶に口をつけた。
 夏用のカーテンが背後で揺れていた。

「――忘れた」


 初めて殺した人間を忘れた。右手に包帯を巻いた女を忘れた。
 赤い竜を教えた人物を忘れた。雨に濡れていた僧侶を忘れた。

 ここのところずっとイライラしていた原因も忘れていた。
 ――こんな朝はめずらしい。

<fin>